左翼の目標は一般の道徳と対立していない。
~~ テッド・カジンスキー ~~
カジンスキ―によれば、ひとは生まれたときから社会に適応するようしつけられるうちに社会のルールを内面化していくのですが、この「社会化」プロセスがあまりにもうまく働きすぎて、たえず良心に苛まれて生きる人たちがでてきてしまうのです。「過度の社会化は、人間同士が互いに加える最も深刻な残酷さの一つである」と、いいます。
「過社会化」されてしまう人には、もともと繊細で、向学心が高く、その結果、高い教育を受ける人たちが大勢います。じつは、そういった人たちの中から現代の左翼主義が生じるのである、とカジンスキ―は主張し、その自己欺瞞に満ちたメカニズムを暴いて見せています。左翼活動家が本当に目指しているのは、社会的弱者を救済することよりも、過社会化された自身の良心と折り合いをつけることで、自己実現のため扱う問題はなんだってよいのです。つまりマイノリティーなどの「弱者」は、左翼エリートの自分探しゲームのステージにされてしまっているということになります。
『ユナボマー・マニフェスト』「過社会化」より
27. 我々は、現代左翼の非常に重要で影響力のある一部が過剰に社会化されており、その過度の社会化が現代左翼の方向性を決定する上で非常に重要であると主張する。過社会化されたタイプの左翼主義者は、知識人や上中流階級の一員である傾向が強い。大学の知識人が我々の社会で最も高度に社会化された層であり、また最も左翼的な層でもあることに注目すべきである。(25)
28. 過社会化されたタイプの左翼主義者は、心理的な鎖から逃れ、自分の自律性を主張したいがために反抗する。しかし、通常、彼は社会の最も基本的な価値観に対して反抗するほど強くはない。一般的に言えば、今日の左翼の目標は広く受け入れられた道徳と対立していない。逆に、左翼は受け入れられた道徳原則を自分たちのものとして取り入れ、それを守らない主流社会を非難するのである。例として、人種平等、男女の平等、貧しい人々を助けること、戦争に対する平和、一般的な非暴力、表現の自由、動物愛護などがある。さらに根本的には、個人が社会に奉仕する義務と社会が個人を守る義務である。これらは、我々の社会(少なくとも中流および上流階級)の中で長い間深く根付いてきた価値観である。これらの価値観は、主流のコミュニケーションメディアや教育システムによって提供されるほとんどの資料の中で、明示的または暗黙のうちに表現され、前提とされている。左翼主義者、特に過社会化されたタイプの者たちは、通常、これらの原則に対して反抗することはなく、むしろ社会がこれらの原則を守っていないと(ある程度の真実に則して)主張することで、自らの社会に対する敵意を正当化するのである。(26)
29. ここでは、過社会化された左翼が社会に対して反抗しているふりをしながら、じつのところは慣習的な態度に執着を示すさまを説明する。多くの左翼は、アファーマティブ・アクションを推進し、黒人を高い地位の仕事に就かせるべきで、黒人学校の教育を改善し、そのような学校にもっと資金を投入すべきだという。彼らは黒人の「アンダークラス(低所得層)」の暮らしぶりを社会の恥と見なしている。彼らは黒人を社会のシステムに統合し、ちょうど上流中産階級の白人と同じように、ビジネスエグゼクティブや弁護士、科学者などにしたいと考えている。左翼は、黒人を白人のコピーにすることなどまったく望んではいないと反論するだろう。いや、むしろアフリカ系アメリカ人の文化を保護したいと考えているのだ、と。しかし、このアフリカ系アメリカ人文化の保護とは具体的に何を意味するのだろうか?それは、せいぜい黒人風の食べ物を食べ、黒人風の音楽を聴き、黒人風の服を着て、黒人風の教会やモスクに通うといった程度のことだろう。言い換えれば、それは表面的なことにしか表れないものなのである。本質的なところでは、過社会化されたタイプの左翼の多くは、黒人を白人中産階級の理想に従わせたいと考えているのである。彼らは黒人が技術的なテーマの勉強をして、会社重役や科学者になることを望み、地位の階段を上ることに人生を費やして、黒人が白人と同じくらい優れていることを証明することを求めている。彼らは黒人の父親を「責任感のある」者としたり、黒人ギャングを非暴力的にしようとしたりする。しかし、これらはまさに産業技術システムの価値観そのものである。システムは、人がどんな音楽を聴こうが、どんな服を着ようが、どんな宗教を信じようが、学校で勉強し、立派な仕事を持ち、地位の階段を上り、「責任感のある」親であり、非暴力的である限り、気にもとめない。実際には、いくら否定しようとも、過社会化された左翼は黒人をシステムに統合し、システムの価値観を取り入れてもらいたいと考えているのである。(27)
30.過社会化されたタイプの左翼であっても、社会の基本的な価値観に対して決して反抗しないと主張するつもりはない。実際、彼らが時折反抗することがあるのは明らかである。過社会化された左翼の中には、物理的暴力に訴えることで、現代社会の最も重要な原則の一つに反抗する者もいる。彼ら自身の説明によれば、暴力は彼らにとって「解放」の一形態である。言い換えれば、暴力を行うことで、自分たちに植え付けられた心理的な束縛を打ち破るのだ。過社会化されているがゆえに、この束縛は他の人々よりも彼らにとってはるかに窮屈であり、それゆえに彼らはそれを打破する必要があるのである。しかし、彼らは通常、自らの反抗を主流の価値観に基づいて正当化する。もし暴力を行うならば、それは人種差別などに対抗して戦っているのだと主張するのだ。
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